「THE有頂天ホテル」を見る。
私は好きだったなあ。
舞台監督とホテルの副支配人の間。
清新な新進政治家と悪代官の間。
できることじゃなく、やりたいことをやる、と
決意するまでの間。
一見かなり離れているけれど、
気がつけば裏表にあるA点とB点の間を
移動する人々の思いが重なりあって、
大晦日と新年の間を疾走していくような映画。
舞台劇のように大げさな身振り、
紋切り型の表現も私は嫌いじゃない、けど
この映画がたのしめるかどうかはそこにかかっている。
なんでかな?
(どうして三谷さんはこの方法を取り入れたのか、
どうして紋切り型の表現には好き嫌いがあるのか)
と考えてみた。
人生において一番大切なものは何か。
と訊かれたら、私はためらいなく「時間」と答える。
時間の区切りが持つ物事を収束させる力や
時間の流れが持つ物事を変化させる力を
目で見ることができたら、
どんなに人生はわかりやすくなるだろう。
たとえば大晦日と新年の間には実際のところ、何もない。
それでもひとは、
年が変わるという区切りに意味合いを付けようとし
年が明けたら何かが変わると信じることができるのだ。
そんな思いが、人をA点からB点へと動かす。
その思いにとらわれた、
心ここにあらず(=有頂天)の動作は当然、
日常性を失ったもの、特別な色合いを帯びたものになる。
逆に言えば、動作が舞台的(ドラマチック)であるほど
その人の内部で流れる時間の特殊性が際立つ。
日々の生活の中で出会うと
唐突で変な感じのする有頂天の動作も、
その場を共有する人々の思いが重なり合うならば
不自然に感じることは全くない。
むしろますます、巻き込まれたいと願うはずだ。
逆に、
思いを共有できない人は、ますます違和感を強める。
さまざまな立場の人が場所を共有するホテルを舞台にして
割と普遍性のある特別な時間=年末年始の物語にしたのは、
映画を見ている人もその思いを共有するための仕掛け。
その分、
ホテル、や年末、の概念を共有できない人が見ると
ちょっと入り込めないかもしれない。
奇跡的にお似合いのカップルが辿る紆余曲折とか
あきらめかけた「才能を見いだされ」て奮起する若者とか
生活していけず転職した先で昔の妻にばったり再会、とか、
どうみたって紋切り型表現の連続なのも
それぞれの煩悩をとりあえず棚上げする大晦日からの必然。
どうがんばったって煩悩から自由になることはできないし、
むしろ本当の幸せって、煩悩を抱えたまま
やりたいことをやって生きることなんじゃないの?
という問いかけも、
紋切り型だからこそ、ある種説得力を持つのかも。
あたっているような気がして無視できない星占いのような。
これも、時代劇の快感がわからないタイプの観客には
理解しにくいかもしれない。
私はこの映画の持つ疾走感に押し流されるのが
とても心地よかったけれど、
自分の力を信じる=他人の力を信じることが
いつも100%できるわけでは決してないし、
世の中そんなにうまくいくもんじゃないよ、
とつぶやきたい気持ちもわかる。
でもね。
もし、こんなふうに思えたら。
ちゃんとやってれば誰かが見ているし、
悪いやつはいつか報いを受けるし、
物語はハッピーエンドに終わる、かもしれない。
そして、人生は有頂天(仏教用語では、生死と解脱の間)
のうちに過ぎていくのかもしれない。
…あれ?
(→「映画」カテゴリより、「ブラザーズグリム」参照)。
そうそう、この映画を見る直前にTVで
同じ監督の「ラジオの時間」を見たのですが、
映画を見ているひとの感情移入の器である主人公の女性が
個性派の面々のなかでひとり、
状況はさておき性格的に無地の存在なのが
上手いなあ(設定も、演技も)と思いました。
今回の器は、監督その人なのかも。と、今思いました。
性格的に無地じゃないとつくれないお話かも。
なんだか、江戸時代の歌舞伎の筋書きみたいな、ね。
私は好きだったなあ。
舞台監督とホテルの副支配人の間。
清新な新進政治家と悪代官の間。
できることじゃなく、やりたいことをやる、と
決意するまでの間。
一見かなり離れているけれど、
気がつけば裏表にあるA点とB点の間を
移動する人々の思いが重なりあって、
大晦日と新年の間を疾走していくような映画。
舞台劇のように大げさな身振り、
紋切り型の表現も私は嫌いじゃない、けど
この映画がたのしめるかどうかはそこにかかっている。
なんでかな?
(どうして三谷さんはこの方法を取り入れたのか、
どうして紋切り型の表現には好き嫌いがあるのか)
と考えてみた。
人生において一番大切なものは何か。
と訊かれたら、私はためらいなく「時間」と答える。
時間の区切りが持つ物事を収束させる力や
時間の流れが持つ物事を変化させる力を
目で見ることができたら、
どんなに人生はわかりやすくなるだろう。
たとえば大晦日と新年の間には実際のところ、何もない。
それでもひとは、
年が変わるという区切りに意味合いを付けようとし
年が明けたら何かが変わると信じることができるのだ。
そんな思いが、人をA点からB点へと動かす。
その思いにとらわれた、
心ここにあらず(=有頂天)の動作は当然、
日常性を失ったもの、特別な色合いを帯びたものになる。
逆に言えば、動作が舞台的(ドラマチック)であるほど
その人の内部で流れる時間の特殊性が際立つ。
日々の生活の中で出会うと
唐突で変な感じのする有頂天の動作も、
その場を共有する人々の思いが重なり合うならば
不自然に感じることは全くない。
むしろますます、巻き込まれたいと願うはずだ。
逆に、
思いを共有できない人は、ますます違和感を強める。
さまざまな立場の人が場所を共有するホテルを舞台にして
割と普遍性のある特別な時間=年末年始の物語にしたのは、
映画を見ている人もその思いを共有するための仕掛け。
その分、
ホテル、や年末、の概念を共有できない人が見ると
ちょっと入り込めないかもしれない。
奇跡的にお似合いのカップルが辿る紆余曲折とか
あきらめかけた「才能を見いだされ」て奮起する若者とか
生活していけず転職した先で昔の妻にばったり再会、とか、
どうみたって紋切り型表現の連続なのも
それぞれの煩悩をとりあえず棚上げする大晦日からの必然。
どうがんばったって煩悩から自由になることはできないし、
むしろ本当の幸せって、煩悩を抱えたまま
やりたいことをやって生きることなんじゃないの?
という問いかけも、
紋切り型だからこそ、ある種説得力を持つのかも。
あたっているような気がして無視できない星占いのような。
これも、時代劇の快感がわからないタイプの観客には
理解しにくいかもしれない。
私はこの映画の持つ疾走感に押し流されるのが
とても心地よかったけれど、
自分の力を信じる=他人の力を信じることが
いつも100%できるわけでは決してないし、
世の中そんなにうまくいくもんじゃないよ、
とつぶやきたい気持ちもわかる。
でもね。
もし、こんなふうに思えたら。
ちゃんとやってれば誰かが見ているし、
悪いやつはいつか報いを受けるし、
物語はハッピーエンドに終わる、かもしれない。
そして、人生は有頂天(仏教用語では、生死と解脱の間)
のうちに過ぎていくのかもしれない。
…あれ?
(→「映画」カテゴリより、「ブラザーズグリム」参照)。
そうそう、この映画を見る直前にTVで
同じ監督の「ラジオの時間」を見たのですが、
映画を見ているひとの感情移入の器である主人公の女性が
個性派の面々のなかでひとり、
状況はさておき性格的に無地の存在なのが
上手いなあ(設定も、演技も)と思いました。
今回の器は、監督その人なのかも。と、今思いました。
性格的に無地じゃないとつくれないお話かも。
なんだか、江戸時代の歌舞伎の筋書きみたいな、ね。